毎年、いち早く開花する、桜並木。札幌市中央区「二番街商店街」

二番街瓦版 創刊号

Episode 01

黄金回廊と
呼ばれて!

~昭和四〇年代後半までを振返って~

 二番街商店街振興組合は大通公園から国道三六号線までの西二丁目通り直線路面型五〇〇㍍の商店街である。古くは胆振への道といわれ、開拓以前には胆振川が流れていたといわれている。

 昭和二〇年代半ば、この付近のビルは三越・五番館・丸井のみで、丸井さんの屋上には探照燈が夜空を照らしていた。

 二番街に面した建物は、一丁目北から延命閣という旅館・山田小児科・そのころ五〇円だった名画座・高桑商店(石造りの倉)・青木写真館・魚問屋(現在の北専会館)・丸本宮本ござ屋・パーマ屋美天使・闇市(物々交換や露店・夏には盆踊り仮装大会)・山一旅館・千歳湯・いろは肉屋・札幌劇場(芝居や実演)・ぜんざい屋・北京飯店・竹澤床屋・クラブ「さんご」。

 二丁目側は、丸井さん・小助川公証人役場・丸三セトヤ・カナリヤ・丸京・奥野呉服屋・岡田花香仙(軒下にあった鬼の面がとても怖かったらしい)・魚問屋(早朝にはセリも行われていた)菊良金物店・軍艦屋(ぜんざいやアイスキャンディ)・たたき売りの店・阿部金物店・都屋・細川げた屋・福田ガラス・塩崎金物店・茶楽寿司・山六畳屋・善光堂・こがね肉鍋屋・狸のみ屋・宮崎牛乳店・焼き鳥・芸者置き場。

 二番街は商・遊・食・宿・風呂と界隈性のある街だったのである。 この二番街と丸井さんから三越、そこから駅前通を南下して狸小路に入り二番街へ戻る。これが黄金回廊である。本当にすべてのものが手に入ったし、ハレの舞台でもあった。常に人の波が切れずそんな状態からその名前がついたようである。また、当時娯楽の中心であった映画館もこの黄金回廊に沿って続々と誕生し、映画回廊といえるほどであったようである。(映画館にまつわるくわしい話は次回へ 乞うご期待!)
この状態は、昭和四十年代後半地下鉄の開通まで続くこととなる。

トピック壱

狸小路と交差するあたりは、札幌の盛り場で、夕方になるとアセチレンガスのにおいが漂い、果物や瀬戸物の叩き売り、人相見、居合い抜き、がまの油売り、くじ引き飴屋、演歌師と、思い思いに大道を占拠し、客を集めていた。

トピック弐

六月の札幌祭りには創成川の上(南一条~六条)に丸太を組み、見世物小屋がずらりと並んだ。サーカス・犬猿芝居・娘剣舞・自転車曲乗り・お化け屋敷・大蛇などと多彩を極め、ジンタヤ鐘太鼓の音が、賑々しく人の心をそそった。
Episode 02

二番街を語る

 今年の七月に、二番街商店街振興組合の方々に集まっていただき、「二番街を語る」と銘打ち、大いに二番街の思い出について語っていただいた。九月一二日に第二回を開催し、冊子にまとめていきたいと考えている。

今回はその中からいくつか興味深い内容を抜粋し紹介する。「住んでいる人が物を売っていた 今と全然違う 今は売ってるけども夜になるとそこに住んでない これはもう基本的に違うよね 何よりも違う 昔はそこを夜中でもトントンと開けると誰かが住んでるんですよ じいちゃんかばあちゃんか 住み込みもいたしね」

「地下街、地下鉄、それで人の考え方変わって来たでしょ 昔は商品を買うときに我々が親から習ったよ 老舗っていう所から買うの 老舗ってつぶれないでいるでしょ? つぶれないでいるっていうことは長い間お客さんと接してる 信用があるっていうそういう意味なのよ 新しいところは確かに可愛がってあげなきゃなんないけども どんなの出すかわかんないじゃないって 人となりもわかんないじゃんって 昔はほら人となりを売ってた その親方のカオをね 暖簾のむこうから 今は出来ればとりあえず 便利だとかで 我々食い物屋なんだけど 昔は北大から電車乗ってそば食べに 信じられないだろうけど でもそれは自分の食いたいものがある所に自分がいくのさ 要するに自分が主人なのさ 今は違うのさ 今は要するに手ごろの方 自分が食べたいか食べたくないかじゃない 時間だから食う スイッチ押されると食わなくちゃいけない」

「昔の日本人と今の日本人と質が違ったのはこれわかるでしょ 食べるもの一つで それだけ嗜好って言うの?あるいは法律、考え方、社会制度が変わってきてるってことは 我々は隅っこからだけども見てるとすごく

だから今子どもを育てるのも 社会の中で調和する子どもを育てようっていうのが我々の時代 今は自分の気に入ったように子どもを育てる その違いですよ」
サーカスがあると二番街から全部忙しかった 今は お祭りやってんの?どこでやってんの? この世界になっちゃう 雪祭りも当初の頃は我々びっちりだった 今違う 雪祭りの会場でちゃんと食べるものが売ってる だから周りが全然潤わないの あれ雪祭りやってんのかい今日? こういう感じなの」

「うちノルベサって観覧車ビルの中に入ってるわな そう考えてみればさ 昔は三越の屋上にも観覧車あったしさ 丸井も上に観覧車あったんだね だから世の中 またね歴史を繰り返してるんだよ

子どもたちの遊びと商店街

 この地域の子どもたちは、現在の札幌市役所に建っていた小学校に通っていた。北は時計台・東に豊平館があり、その前の池では冬はスキーやソリ遊びに大勢の子供で賑わっていた。とりわけ二番街の子どもたちは、商店街の屋根の上も遊び場となっていたようである。また、通りを挟んで一丁目・二丁目では、それぞれ番長がおり、豊かな人間関係が?育まれていたようだ。
昭和三十年代の子どもたちにとりわけ人気を博したのは、丸井六階(後に七階)にあった「道新ニュース劇場」(北海道新聞社が経営)で、約五・六分のニュース映画を中心にディズニー映画(ウッドペッカーなど)の短編アニメなどを上映していた。入場料金が破格の安さ、ベンチのような硬い椅子だったが、まだテレビが家庭に普及する前のせいもあって、子どもたちに絶大なる人気だった。

とうまんと西洋うどん

 丸井一条本館入り口近くで、機械がガシャンガシャンと鳴り響きながら自動的に「とうまん」が出来上がる。隠れた札幌名物「とうまん」とは、シンプルな味が特徴の白あんまんじゅうのことで、とうまんひと筋に製造販売する「冨士屋」は昭和二十七年に創業された。
今でこそスパゲティは麺類の定番とされているが、昭和三十年代終わりの札幌に専門店は一件しかなかった。丸井今井大通館の場所にあった「マカロニキッチン・ママ」である。味はミートとナポリタンの二種類のみ、当時の値段は一〇〇円。後から真似する店が続出したとか。

昭和五十年十二月四日の新聞広告。
年末には「二番街歳末大売出し」
五十三年には「二の日サービス」も開始。
Episode 03

商店街振興組合の誕生!

 昭和四十九年五月~

地下鉄南北線の開通で、地下商店街の完成や冬季オリンピックの大成功で国際都市に仲間入りした頃、親睦会「いぶり会」を発展解消、振興組合を設立する機運が高まり、昭和四十九年五月南大通から狸小路までの二番街商店街振興組合が誕生することとなる。
だが、副都心の整備、郊外型の大型ショッピングセンターの続出により黄金回廊は徐々に衰退していったため、昭和五十七年頃から「街路検討委員会」を設置。
昭和五十九年四月通産省発案の「コミュニティーマート構想モデル事業」の提唱で南二番街町内会と合併し商店街活性化に取り組んだ。ここで現在の二番街の形が出来上がり、共同で日本初の事業に取り組むこととなる。

「二番街商店街活性化モデル事業」
①地下鉄東豊線の埋め戻しにあわせて街路を新しくすること
②地下鉄からの昇降口誘致のため歩道を七㍍に拡張すること。

民間が市道を建設するのは初めての試みで資金は借り入れで行うこととなった。
資金、総合調整、デザインなどの部会を作り、組合員全員がそれぞれ委員となり、会合を重ねた結果、温水式ロードヒーティング内蔵の街路が完成した。

 七㍍の広い歩道が出来、地下鉄からの昇降口、花壇やベンチ、札幌の子どもたちや時の人の手形、札幌の桜の開花で一番早いといわれる蝦夷山桜やりんでんの街路樹は、訪れる人の心を和ませてくれる。
昭和六十二年に札幌市から街路としては初めての「景観賞」を受賞、その後近隣商店街も街路整備を実施、札幌市の炉間ネット計画より各条丁線、都通り、シャワー通り等が整備され現在の中心部の街路が出来上がった。

札幌文庫88 「札幌の商い」より

昭和六十二年五月二十三日
公園通り二番街 オープニングセレモニー
日本初の事業
「二番街商店街 活性化モデル事業」
Episode 05

昭和55年7月24日の
夕刊広告記事

商店街振興組合も六年目に入り、バーゲン対抗合戦として丁目を挟んでの企画となる。狸小路から南は、まだ、合併していないので、この当時は狸小路から北だけが、二番街商店街振興組合であった。狸小路より南は南二番街町内会、次回はこちらを紹介します。

地図の部分を拡大してみました。
この地図を見ながら通りを歩くと、ずいぶん店・建物が変わっていることに気づくでしょう。是非やってみてください。新しい発見があるのでは?
この当時、よく来ていた人は、どこにたくさん思い出がありますか? この地図を見ながら振返ってみてください。

繋がりついでに、児童絵画展入選発表(右記事)で受賞した田村直樹(豊園小五年)・末吉正樹(月寒東小五年)・高橋努(白樺幼稚園五歳)・宇都宮まき(東園小二年)・たかだゆみ(なかのしま幼稚園五歳)の皆さんは今どうしているのでしょうか? 私だ!と偶然気づいたら、二番街事務所までご一報ください。なんかそんな出会いがまた生まれそうな予感がしているのは、私だけでしょうか? 結果は次号でお伝えします。 乞うご期待
Editor's Note

創刊に寄せて

 二番街商店街振興組合の依頼を受けてここ2年ほど、この商店街のにぎわい作りに関わってきた。近頃この通りがやけに気になりだしている。通りというより、この商店街に関わっている人たちがとても気になって、ついつい昔話を聞いてしまう。
昔は皆この街に住んでいた。そこには豊かな生活があり、金銭的というより温かな関係が昔話を聞くたびに強く感じられ、大都市札幌にもこんな時代があったのだと。
昭和四十年後半、札幌オリンピック・地下鉄の開通、この時期を境に商店街は大きく変貌を遂げる。人の流れが大きく変わり、地価の高騰も影響し、商店街の人々は生活の場を郊外に移すこととなる。本当は街中に住んでいたかった、そんな思いが話の端々から感じ取れる。そんな人たちだからこそ、商店街の本当の良さを実感している人たちだからこそ魅力を感じるのかもしれない。
昔話を聞いた後に、二番街をぶらぶら歩き、見上げると、とおりの向こうにテレビ塔が目に入る。 ん?
「ALWAYS三丁目 じゃない 二番街の夕日だな!」
便利さに流されて、本当に大切な、生活する中で大事な何かがここにあった! 確かに。ノスタルジックに浸るだけでなく、それを今後に活かしていけたら・・・。
そんな想いからこの瓦版を発行することとなったのである。何号まで続くかは別としてしばしの間お付き合い願えたら光栄です。

札幌都心にぎわいづくり事務局 穴澤 義晴

昭和六十二年五月二十三日
公園通り二番街 オープニングセレモニー
日本初の事業
「二番街商店街活性化モデル事業」